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4、地下宮殿とアヤソフィアへ

2004.06.13
小雨の残る中、今日も旧市街歴史地区の観光だ。ホテルからタクシム広場経由でなく、徒歩で海沿いに坂を下りて30分程度でガラタ橋に着いた。橋の向うに旧市街が見える。 
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さらにそこから20~30分ぐらい徒歩で坂を上ると小雨にけぶるアヤソフィアがものうげに現われた。ふたたびこのアヤソフィアに来たのは、大城壁と共にコンスタンチノープルの陥落を象徴する歴史的現場を実感したいからだ。
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大城壁の城門扉の閂(かんぬき)のかけ忘れという些細で且つ大きなミスによりオスマン軍の怒涛の侵略を受けることになった哀れビザンチン市民はなだれを打ってこのアヤソフィアに逃げ込んだ。まさに阿鼻叫喚。この光景を中立の立場にあったジェノヴァの人たちは丘の上のガラタ塔から一部始終を眺めているほかは無かった。どんな気持ちであったろうか?! (オスマン軍は図面左から右端のアヤソフィアの方へ攻め入る。アヤソフィアは緑の広場のすぐ上、ガラタ塔は上の方=現在の新市街に描かれている)
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「アヤソフィア大聖堂はビザンツの正教徒たちの崇拝の的であった。帝都コンスタンチノープルがムスリマーン(イスラム教徒)のオスマン朝の手中に落ちたとき、キリスト教徒の善男善女は神の奇跡による救いを求めて大聖堂に殺到したという。この二階へと続く薄明かりのスロープも彼等の目に救いへの道と映じたのであろうか。」
(「イスタンブール歴史散歩」=鈴木 董・ただし)
その、二階へと続く阿鼻叫喚のスロープである。手振れで映像が不鮮明なのが残念。
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二階に描かれたイコンと聖壁画の一部
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アヤソフィアを出てすぐ隣にある地下宮殿(=イェレバタン・サラユ)に行く。小さな小屋が地下への入り口。
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そもそもはローマ帝国時代に造られた地下貯水池である。今でも地面には水がたまり内部はひんやりしている。フランス人考古学者が存在を発見するまで誰も地下にこのような空間があることを知らず、人々は地下宮殿の上に家を建て床下に穴をあけては水を汲んだり魚を釣っていた。長い間、征服者オスマンの支配者が知らなかったとは痛快で且つ興味深い。
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内部は装飾の施された約360本の柱で支えられている。  毎年一定期間、前衛アーティストに宮殿内の表現をゆだねているようで私が行ったこの時は天井から無数の白い電球が吊り下げられていて幻想的な雰囲気に包まれていた。(夜景モードで撮影)
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柱のうちの2本に伝説のメドゥーサの顔が彫られていることで有名。顔が逆さに踏みつけられたものと横顔を踏みつけられたものとがある。メドゥーサは自らをアテナ女神よりも美しいと自慢して歩いたため女神の怒りを買い髪の毛が蛇の醜い姿に変えられた。彼女を見た者は石のように固まってしまったと伝えられるギリシャ伝説きっての嫌われ者である。このメドゥーサ彫刻の柱も、近代になって貯水池の底に2メートルほどの残滓が溜まりそれを浚い出したときに発見したという事で、この話もまた興味深い。

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この地下建造物は予想以上に興味をそそられたので時間をとられ遅いお昼の時間となりました。昼食はバシャクさんから紹介されていた小奇麗なレストラン、PALMIYEパルミェで。GUVECギュベッチ(キャセロール)という土鍋牛肉料理。味が濃くてうまかった。
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トプカプ宮殿の外塀ずてに歩くと塀を背にして感じのいいプチペンションが並んでいる。これくらいのところに逗留したいなと思いながら散策。
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帰りがけシルケジ駅に寄る。有名な「オリエント急行(パリーイスタンブール間長距離寝台車)」の終着駅だ。また、アガサ・クリスティの推理小説「オリエント急行殺人事件」でも有名だ。
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現在この列車はなく、フランス・ストラスブール~ウィーン間をNIOE(ノスタルジー・イスタンブール・オリエント・エクスプレス)の名で復元観光列車として運行されている。
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そのアガサ・クリスティが推理小説「オリエント・・」執筆のため長期滞在したという新市街にある高級ホテル「ペラ・パレス」に立ち寄った。雨の中、古く暗いイメージで佇み高級感はあるが今では4つ星の扱いである。ホテルの右側の広場は後にも出てくるが夕日の金角湾撮影の絶好のポイントである。
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なお、シルケジ駅中央の部分は現在駅舎としては使われておらず、がらんどうでホールとして使われているらしい。
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このシルケジ駅のホールで、時にメヴレヴィィー教団によるセマー(旋舞)が上演されるらしい。首を曲げた格好でクルクル踊る白い人形のような服装の舞踊、踊る宗教のようなあれがセマーで、オスマン朝時代から続くスーフィー(イスラム神秘主義)だ。(下の画像はシルケジ駅ホールのポスター) 


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ついでに言っておくと、スーフィーの修行僧のことをダルヴィッシュといい、日本ハムファイターズのエース ダルヴィッシュ・有の本名「ダルヴィッシュセファット・ファリード・有」のセファットは「修行僧のような」という形容詞であるそうな・・

帰りの道端でスィミットを買って食べる。いわゆるゴマパン。固くてモチモチしているけれど、噛めば噛む程に美味しくなってくるから不思議。ご飯の時に食べるパンというよりオヤツ的感覚で1個\20円位。結構いける。ホテルに戻り例の1Fスナックでビールをあおって熟睡。
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御用とお急ぎでない方のために
             
           ①アヤソフィア


ボスポラス海峡と金角湾に挟まれたセラグリオ岬に最初に聖堂を建てたのはコンスタンチノープルに遷都したコンスタンティヌス一世である。
 東方正教会(ギリシャ正教)の総本山として三六〇年に建造され、五世紀ごろからハギアソフィア(神の叡智)と呼ばれるようになった。
 しかし、聖堂は暴動によって二度破壊され、現在の聖堂はユスティニアン皇帝(五二七~五六五年)によって五三七年に再建された。聖堂の建設には五年の歳月が掛かり、エフェソスやデルフィなどの古代神殿の円柱を利用し、マルマラ海の白い大理石、テッサリアの緑、フリギアのピンク、カッバドキアの象牙色、等々各地の大理石を取り寄せて築かれた壮大華麗な聖堂であった。
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 一二〇四年、第四次十字軍がコンスタンチノープルを陥落させ、略奪、狼藉の限りを尽くし、異教徒の神殿を荒らすが如く大聖堂の金品も略奪の対象となり、価値有る物は全て持ち去った。
イタリアのヴェネチアに有るサン・マルコ教会の正面屋上を飾る、金鍍金が施された四頭の馬のブロンズ(レプリカ)もこの戦いの戦利品として持ち帰った。
 一二六一年、ミカエル八世によってコンスタンチノープルを奪回し、ハギアソフィアの修復を命じドームの重みを支える壁を配したが帝国は衰退に向かっていた。
 一四五三年、オスマントルコによってコンスタンチノープルは陥落し、征服者メフメト二世はハギアソフィア大聖堂に入ってアッラーの神に勝利を祈り、この聖堂をモスクに改造する事を命じ、最初にミヒラブ(メッカの方角を指し示す祭壇)が作られた。
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 そして、イスラム寺院の象徴であるミナレット(尖塔)が一本建てられハギアソフィア大聖堂はトルコ語でアヤ・ソフィアと呼ばれるようになった。
 しかし、メフメト二世はこの聖堂がビザンチン帝国随一の聖堂であった事に敬意を払ったのか偶像崇拝を禁止するイスラムの教えに反してイエスキリストやマリア像のモザイク画を破壊しなかった。
 メフメト二世の跡を継いだベヤズイット二世(一四四七~一五一二年)はキリスト教の聖画が存在していたモスクにミナレットを一本建てた。
 モザイク画を消し去ったのはスレイマン一世(一四九四~一五六六年)の時代と伝えられている。スレイマン一世は偶像崇拝を禁じるイスラムの教えに従い、ドームの天井や壁に描かれていたイエスキリストやマリア像の全てのモザイク画を傷つける事無く、人目につかない様に漆喰で塗り固めた。
 スレイマン一世がオスマン帝国のスルタンに就いたのは一五二〇年である。メフメト二世がコンスタンチノープルを征服した一四五三年から少なくとも一五二〇年までの六七年間イスラム寺院でありながらキリスト教のモザイク画がモスクの中に存在していた事になる。
 メフメト二世がコンスタンチノープルを占領した後も居住するギリシャ人に信教の自由を保障した。それ故、キリスト教徒の信仰の対象であった聖画を削り取り、破壊する等々のキリスト教徒の反感を買う行為を行わなかったのであろう。
 現在、修復されてモザイク画やフレスコ画が数多く残っているカーリエ博物館もビザンチン帝国時代は聖救世主教会であった。
 この教会がモスクに変えられたのはベヤズイット二世の時代と伝えられているので、少なくともベヤズイット二世がスルタンに就いた一四八一年までおよそ三〇年間は教会として存続していた。
 この教会がモスクとなり、アヤ・ソフィアと同様にモザイク画やフレスコ画を人目につかない様に漆喰で塗り固めたのはおそらくスレイマン一世であろう。
 その後、アヤ・ソフィアはセリム二世(一五二四~一五七四年)が二本のミナレットを建設し、形の異なる四本のミナレット(尖塔)を持つイスラム寺院となった。
 アヤ・ソフィア大聖堂に対抗して一六一六年に建造されたモスクが通称ブルーモスクと称されるスルタンアフメットジャミィである。
 一九三一年、アメリカの調査隊が漆喰の中からビザンチン帝国時代のモザイク画を発見し、五百年間、漆喰に埋もれていたモザイク画を蘇らせた。
 それ故、アヤ・ソフィアは外から眺めると形の異なるミナレットが四本建つモスクであるが中に入るとイスラム教とキリスト教が共存する不思議な空間であった。
 大聖堂の広さは回廊を含めて七五七〇平方メートル(二、二九四坪)、世界で四番目に大きい聖堂と云われている。ドームは完全な円形ではなく三〇・八メートルと三一・八八メートルの楕円形で、高さ五五・六メートル、ドームには四〇の窓が開けられている。
 ドームの壁にはイエスキリストや洗礼者ヨハネ、幼いキリストを膝に抱いた聖母マリア、キリストに 跪(ひざまず)くビザンチン帝国の皇帝等々のモザイク画が描かれ、このアヤ・ソフィアはかつてビザンチン帝国随一のキリスト教の大聖堂であったことを今に伝えている。
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 一方、ドームの天井には金箔でコーランの一節を記したカリグラフィー(アラビア文字を装飾的に描いた文字)が描かれ、階上には直径七・五メートルもある大きなパネルが八枚も掛かっており、このパネルにも金箔でコーランの一節をカリグラフィーで描いている。
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 柱や壁にはイスラムの幾何学的な文様とカリグラフィーが描かれ、イスラム教としても重要なモスクであったことを示している。
 この様に漆喰に埋もれていたモザイク画を蘇らせたアヤ・ソフィアはキリスト教の聖画とイスラム教のカリグラフィーが同居する不思議な聖堂である。
 一九三四年、アタテュルクはアヤ・ソフィア大聖堂を歴史的建造物として国の博物館に指定し一般に公開した。


    ②地下宮殿  (イェレバタン サラユ)

地下宮殿(ちかきゅうでん)の通称で知られるバシリカ・シスタン (Basilica Cistern) は、トルコ共和国のイスタンブルにある東ローマ帝国の大貯水槽。トルコ語では「地下宮殿」を意味するイェレバタン・サラユ (Yerebatan Sarayı) 、あるいは「地下貯水池」を意味するイェレバタン・サルヌジュ (Yerebatan Sarnıcı) という名前で呼ばれている。

地下宮殿現存する東ローマ帝国の貯水池としては最大のものである。現在は一般にも公開され、イスタンブール歴史地域として世界遺産にも登録されている。

概説 この大会堂規模の大きさを持つ貯水池は、東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌスによって建設されたものである。かつてここには柱廊によって囲まれた中庭を有するフォルムのような空間があり、裁判や商業活動に利用されていた。ユスティニアヌス帝はこれを解体し、最も南にあった柱廊の部分を掘り下げて、この貯水槽を設置した。

貯水槽は長さ138m・幅65mの長方形の空間で、高さ9m、1列12本で28列、合計336本の大理石円柱を備え、それぞれが煉瓦造の交差ヴォールトを支える。これによって78,000m³の水を貯えることができる。円柱のうち、98本は5世紀に流行したアカンサス柱頭を備えたもので、おそらく流行遅れの在庫処分品であったらしい。このほかにも、目玉飾りで覆われた柱身や、メデューサの顔が彫られた古代の石塊を土台にするなど、特に美的効果を必要としなかったために半端な材料が用いられた。
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壁体は、水を通さない特殊なモルタルでおおわれた厚さ4mの耐火レンガの壁に囲まれている。コンスタンティノポリスの給水については不明な点が多く、この貯水池の水がどこからやってきたのかについては明確ではない。おそらく街の北19kmにあるベルグラードの森から供給されたと考えられるが、現在残る水路はオスマン帝国によって作られたもので、「ユスティニアヌスの水道橋」と呼ばれるものも16世紀に創られたものである。
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この貯水池は、ジェームズ・ボンドの映画『007 ロシアより愛をこめて』の撮影場所として使われた。

by ISTIMPOLIN | 2004-06-13 18:06 | 4,四日目、地下宮殿とアヤソフ